◆ Shigeru Yamasaki 〜Bosque de Guitarra

石炭箱いっぱいのSP盤……ギターとの出会い

by S.Yamasaki

「操体オヂラ〜ドーコレ育体〜」

――私の手元には古びた茶色い明朝体でこう書かれた大盤のSPがある。
もう60年近く前の代物だ。

黴と埃のすすっぽい黒さ、
ひろげた両手の空間をめいいっぱい占めるカサ高さ、
漆の菓子盆を思わせるほどのしっくりした重量感……
これがなぜ今ここに残っているのか。 おそらくこの類まれな大盤のゆえに、もしくはその完璧な「実用性」のために、一度も耳にすることなく保存の幸運が働いたのだろう。

先日の鳥取の震災で、友人らの無事を確認するため、数日間ばたばたと過ごしていた。
否応なく5年前の阪神・淡路大震災が思い起こされる。 震災後3回の引っ越しを繰り返したのだが、その時の荷物で、いまだ荷ほどきをしていない箱があるのを唐突に思い出した。 その中身はLPレコード、そして父の遺してくれた数枚のSPレコードである。

2歳8ヶ月で逝った父のことはほとんど覚えていない。
唯一と言ってもよい記憶は,父に肩車をしてもらって居間を行ったり来たりしたことである。 いつもと視界ががらりと変わり、ちゃぶ台が下の方に小さく見えた。 居間からとなりの部屋へ移動するときに、鴨居が間近に迫って今にも額をぶつけそうだった。 そんな断片的な感覚に、「父親」という具体的なイメージが加わりはじめたのは、小学校にあがった頃からである。

看護婦として働きに出る母親とすれちがう生活の中で、父が遺してくれた蓄音機とレコードは、鍵っ子少年の格好のおもちゃであった。
石炭箱に溢れるSPの数々。
メンデルスゾーン、ベートーベン、モーツァルト……。
「ルテ・ムヤリイウ」…不可思議な響きのカタカナ題名を紙に書いて中心部に貼り付けてある洋盤。
「チャチャチャの曲」とだけ書かれたジャズ盤。
「真夏の夜の夢」など、ただ題名に強く惹かれて聴き込んだものもあった。

均質な黒い盤のいったいどこからあのような複雑なメロディーが流れ出るのか、 まったく神秘的だった。
回転するレコード盤に自分で縫い針を近づけて、か細いがしかし確かに音が出るのが面白く、 繰り返すうちに何枚もの盤をだめにしてしまった。 大きな黒い盤の中央におもむろに貼り付けられた曲名は、 まるで父親からの唯一のメッセージのようだった。 そんな石炭箱いっぱいのSPは、母の好みで美空ひばりや小唄が加わったり、 いつのまにか壊れて減ったりしながら、結局手元にはわずか5,6枚しか残っていない。

SP盤が誘導してくれたのかいざ知らず、音楽との華やかな逢瀬が始まった。
小学校の学芸会では演奏の楽しさを知り、様々な楽器をこなした。
女の子の楽器として男の子には見向きもされなかった木琴を、はりきって演奏した。
高学年になると指揮者に挑戦したりした。
小学校ではいつも、音楽の成績は最上級だった。

しかしそんな楽しい想い出も長くは続かない。
中学2年になった頃、音楽のテストで大恥をかいてしまった。 課題の歌が,気の抜けた蛙のように、まるで歌えなかったのである。 変声期を迎えた私は、もはや原調の高さでは歌えなかった。以来、歌うことにはいつもためらいがつきまとう。

歌によって音楽への挫折を経験しはじめていた私に、義理の兄がギターを貸してくれた。 それを手にした私は、完全に我を忘れて熱中した。何よりもこの楽器は、「ハーモニー」が奏でられるのである。

「ぼろろろん」は、それまでの縦笛やハーモニカでは到底出せない和音の喜びだった。 私は手探りで、幾つもの「ぼろろろん」を見つけだしては組み合わせて楽しんだ。 一週間で兄よりも上手になってしまった私を見て、兄はあきれたように、もうお前さんにやるよ、と言ってくれた。

ギターとの出会い。今にして思えば、兄のはからいが生んだ変声期の偶然としか言いようがない。

*    *    *

石炭箱いっぱいのSPと蓄音機。「操体オヂラ」と「真夏の夜の夢」。 記憶の底ではいつも数々のメロディーが蓄音機の上で回転している。
今年母親も他界した。

そして私は、今もギターを弾いている。

(現代ギター2000.12月号掲載)


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